東日本大震災後のレポート
Report8 強固な絆で地域を盛り上げる
2016.03.23 15:50
【氏名】村上誠二氏
【所属】長洞元気村
【属性】任意団体
【県市】岩手県陸前高田市
【取材日】2015/10/30
【タイトル】強固な絆で地域を盛り上げる
【紹介文】
東日本大震災で長洞集落60戸のうち、28戸が津波に飲みこまれた。家を失った住民は高台の民家に分宿し、集落中の食料を分け合うなど助け合って被災生活を乗り切った。その後、住民自ら地権者や市、県と交渉し、集落内に仮設住宅「長洞元気村」建設を実現する。長洞集落の再建に向け、地域の絆を活かしたさまざまな取組を行っている。
【本文】
■住民が地域での役割を意識する集落
岩手県広田町は、陸前高田市からほど近い広田半島にある海に囲まれた漁業の盛んな町だ。学校事務職員になってからは釜石市や大船渡市に長く住んだが、結婚を機に故郷である広田町に戻りたいと考えた。広田町長洞集落に引っ越して間もなく、自治会の役員になって欲しいと声がかかり、私にできることがあればとの思いから役員を引き受けることにした。当時から広田町は過疎化が進み、盆踊りなどの自治会行事は縮小傾向にあった。以前は1日かけて開催した町民運動会も、午前中で終了してしまうようになっていた。せっかく昔からある自治会行事を減らすのはもったいないと思い、なんとか集落を盛り上げる機会にできないかと自治会内で議論した。今行われている行事に、さらに楽しめる工夫をすれば良いのではないかと考え、参加者を労うために豚汁などの昼食を準備してはどうかと提案した。住民の中には「やるんだったら構わないけれども」と冷たい視線を向ける人もいたが、呼びかけると協力者がたくさん集まってくれた。試行錯誤の末、自治会行事はさまざまな工夫によりだんだんと賑わうようになっていった。こうして、地域内には自分たちの楽しみを住民自らで作るという空気ができていった。
広田町には7つの集落があり、各集落が4年に1回、梯子虎舞などの郷土芸能や女性部の手踊りを競って、広田町の村社である黒崎神社に奉納している。長洞集落は人が少ないので、子どもからお年寄りまで総参加で手伝わないと祭の準備ができない。大人は年長者に習いながら山車を作り、子ども達は踊りの練習をする。住民総参加でお祭りを作り上げることにより「1人ひとりが集落の構成員で、それぞれの役割がある」という意識が自然と芽生えていった。以前はお祭りの慰労会には、1世帯1人だけの参加だった。住民皆でお祭りを作っているのだから、少なくともお祭りに参加した人は子どもであろうと大人であろうと関係なく慰労会に参加できるように仕組みを変えた。参加者が増えれば慰労会でかかる費用も増えるが、住民それぞれに地域での役割があるという意識や、地域における自分の存在の明確化につながったと思う。
■3月11日(金)14時46分
当時、私は勤務先である陸前高田市立第一中学校にいた。体育館に全校生徒を集め、翌日の卒業式に向けて練習をしている最中に地震が起きた。大きな倒壊は無かったが、いつまた余震が来るか分からない。ひとまず校庭に避難した。中学校は山の上にあるため、市街地が見渡せる。街の方を見てみると異様な臭いとともにもくもくと土埃が上がっており、初めは街中が火事になったのではないかと思った。その後、何とも言えない地鳴りのような音ともに津波が押し寄せ、市街地がだんだんと飲み込まれていく様を見ていた。助けを求める声や悲鳴が響き渡っていた。
寒かったので、夕方には生徒たちと校舎の中に戻った。保護者が迎えに来てくれた生徒は帰っていったが、迎えが来ていない約100名の生徒たちは学校に残ることになった。子ども達を置いて自宅に帰るわけにはいかない。それに、津波は一波では終わらない。夜に動いても津波に巻き込まれてしまう可能性が高い。夜が明けるまでは自宅には帰れないと思った。子ども達の他に約千人の住民が体育館に避難しに来たので、その夜は対応に追われた。
津波により市街地が完全に倒壊していく様子を目の当たりにしたので、とてつもない大災害になっているだろうとは思った。遠方から車で避難してきた人々から他地域の状況を聞く機会はあったものの、停電が続いたためテレビやインターネットが使えず、震災の全容が分かる情報はなかなか入ってこなかった。
翌朝、家族の安否確認をするため広田町へ車で向かったが、途中で道が寸断していたため、そこから長洞地区まで歩いた。集落の会長の家に行くと住民が集まっていた。妻が広田町の避難所にいると聞いたので、情報を頼りに避難所へ向かった。避難所で妻に会うことができ、ひと安心した。
広田半島は岬になっており、津波の影響で道路が寸断されて孤立状態となった。物資や食料はいつ届くか分からない。自分たちで工夫し、なんとか生き延びるしかなかった。そうした状況の中で長洞集落は自治会を中心に組織的に動くことで、被災生活を乗り切ることができた。朝は必ず住民全員で集会を開き、その日の活動を確認し合い、夕方にも再度全員が集まり活動報告と翌日の活動を確認した。発生している問題を解決するために地域が一丸となり取り組んだ。朝夕の集会は約1週間続いた。一番の課題は食料の確保だった。震災被害の少なかった家を一軒一軒訪ね、「食料を自治会に集め、皆で分け合いたい」とお願いして回った。皆が協力してくれたおかげで、発災から2日目、この集落に住民全員が1ヶ月間は食べていける量のお米があると分かった。その後、数日間は住民から集めた食料を皆で分け合って凌いだ。お年寄りの薬の確保も重要な課題だった。住民にどんな薬が必要か聞き取り調査を行い、それを基に病院を回った。病院からは本人がいないと薬を渡すことができないと言われたため、薬が必要な方をワゴン車に乗せて病院を回った。他にも住民の安否確認などさまざまな活動を行った。
震災以前の祭りの慰労会で「お祭りへの参加は最高最大の防災訓練だよ」と話をしたことがあった。大災害があっても、集落の自治組織が機能すれば絶対に乗り越えられると思っていた。当時は冗談半分で言ったが、これらの活動ができたのは、震災以前からの住民同士のつながりがあったからだと考えている。
■子どもの笑顔で大人がやる気に
震災の影響で学校が休校になり、子ども達は外で遊べず、家や避難所にこもる日々が続いた。妻は集落のために頑張る住民の姿を見て、自分も何かしたいと思ったそうだ。妻は教員だったので、30人程度の小中学生を集めて「長洞元気学校」と称した寺子屋のようなものを始めた。教員免許を持つ住民にも授業に協力してもらった。活動をしているとおじいちゃんやおばあちゃんが子ども達の様子を見に集まってきた。震災直後、年長者は「おらみたいな年寄りが生きていても周りの人に迷惑をかけるしかない」「おらみたいな者が生き残って申し訳ない」と言い、暗い表情をしていた。それが、子ども達が一生懸命勉強し、楽しそうに走り回っている様子を見て、「長洞にも未来がある。俺たちもただぼーとしていられないんじゃないか」と前向きな会話に変わっていった。授業の際は、必ず交代で2名のお母さんに来てもらうようにした。おじいちゃんやおばあちゃんと同じようにお父さんお母さんも、子ども達の様子を見て「頑張らなければ」と前向きな気持ちに変化していった。こうして長洞元気学校で元気に動き回る子ども達から大人たちへと元気が伝染し、地域全体に「みんなでがんばっぺ」という雰囲気ができあがっていった。
2011年4月20日に学校の再開が決まり、長洞元気学校は終了することとなった。最終日には、近くにあるキャンプ場へ遠足に行くことにした。その頃には広田町までトラックが来るようになっていたので、子ども達の安全のため地域住民から見守りのお手伝いを募った。すると35名の生徒に対し、お手伝いの住民が45名も集まった。子ども達の周りには、地域住民のたくさんのエネルギーが集まる。子ども達が屈託のない笑顔で遊んでいるのを見ると、くよくよしていられないという思いにさせられるからだ。
長洞元気学校が終了する頃、仮設住宅団地の建設が始まった。自治会の中に「仮設住宅団地と呼ぶのは抵抗がある」という意見があった。そこで、「長洞元気学校」から名前を取って仮設住宅団地を「長洞元気村」と呼ぶことにした。
■集落を支える女性の力
大震災の復旧に向け、技術や力があればできる男性向けの仕事が随分と増えた。しかし、高齢女性を雇ってくれる会社はほとんどない。むしろ、この機会に社内を若返らせたいと企業は考えたようだ。男性は仕事で外に出かけているので、高齢女性たちに中心となって長洞元気村の自治体運営を担って欲しいと考えた。そのきっかけ作りとして、女性たちが活躍できる場づくりを行うことにした。最初に取り組んだのは仮設住宅内での産直運営だ。女性たちに野菜などを作ってもらい、毎週土曜に産直「笑顔の集まる土曜市」で販売をした。産直の運営を担ってくれたのは、60歳を過ぎた女性たちが集まる「なでしこ会」だ。お年寄りが家から出てこないと連絡があると、彼女たちが家まで訪ねて話し相手になるなど、見守り隊の役目も果たしてくれた。活動をする中でだんだん彼女たちに、「もっと地域のためにできることを自分たちでやれないか」という気持ちが生まれていった。この地域では昔、冠婚葬祭があると皆で集まって必ずゆべしを作ってもてなした。会の中にゆべし作りの名人がいるので、ゆべしを作って売ってはどうかという案が出た。こうして、仮設住宅の談話室を活用してゆべしを作り、販売し始めた。この活動は今も続いており、月に1回はゆべし作りやわかめの袋詰めなどをし、東京の会社に商品を卸して販売してもらっている。
ある日、災害ボランティアの方から1人千円払うので3人分のお昼ご飯を準備して欲しいとお願いがあった。3千円分のお弁当なので1人か2人で作れば材料費や光熱費だけでなく賃金まで賄える。なでしこ会に対応できないか相談したところ、会の中から8人も協力したいと申し出てくれた。彼女らは「自分たちの手間賃はいらない。皆で集まって、わいわい言いながら作って、食べてもらって、食べた人が喜んでくれて、よそから来た人の話が聞けるのならばそれで十分だ」と言う。賃金の確保よりも楽しむことを優先した発想を面白いと感じ、その時はなでしこ会と地域外の人の交流に重きを置くことにした。なでしこ会にはそれぞれの生活を優先する活動スタイルが合っている。もしも、自分の家のおじいちゃんを病院に連れて行かなければならないのならそちらを優先し、時間に余裕がある時に来てお弁当作りやゆべし作りなどをするスタイルだ。しかし、ボランティアでは長くは続かないと思うので、時給400円を支払う仕組みにした。
他にもなでしこ会の活躍の場として長洞元気村支援会員という制度をつくった。長洞集落を応援したい会員を全国から募集し、会費2万円をお支払いいただく代わりに、年に4回、例えば、なでしこ会が作った干し柿や海産物など長洞元気村の特産品を送るサービスをしている。彼女たちは既存の活動にとらわれず、集落で採れた豆を干して味噌作りを行うなど、さまざまな取組に挑戦し続けている。
■長洞未来会議から生まれる活動
震災からちょうど1年経った頃、「長洞未来会議」と題して長洞集落をこれからどんな風にしていくか、皆でじっくり話し合った。「ここで取れる海産物を商品化したい」「地震や津波のことを語り継いでいきたい」などさまざまな意見が出た。出た意見を基にさまざまなプロジェクトが生まれ、地域住民の力を合わせ実行している。この会議はなでしこ会を中心に継続的に行っている。
長洞元気村で活躍しているのは女性たちだけではない。万燈籠の復活プロジェクトでは男性陣が活躍している。長洞地区ではお盆に先祖の霊が迷わず家に帰れるよう、海沿いに万燈籠を照らす風習があった。この文化を受け継いでいくため、今年も集落の男性陣を集め、長さ200mほどの万燈籠を作り、海沿いの道路に飾った。来年はもっと長い万燈籠を作りたいと考えている。今のところ、参加者は6~7人だが、ゆくゆくは参加者を倍にしたい。おじいちゃんたちを引っ張り出してくるのは至難の技だ。私自身が別に仕事をしているので十分にお付き合いしきれないからか、なかなかプロジェクトには参加してもらえない。今後はおじいちゃんたちが参加したいと思える活動を生み出したいと考えている。
他にも長洞元気村では震災や長洞集落の文化を学ぶスタディーツアーの受け入れを行っている。まず私が集会場で震災当時や以後の取組について1~2時間程度で話をする。その後、おばあちゃんたちに震災当時どんな様子だったのか、集落を回りながら語り部をしてもらう。最後に参加者となでしこ会の皆でお昼ご飯を作って食べるという内容だ。この取組を始めたばかりの頃は、おばあちゃんたちは不安げに語り部をしていたが、ハーバード大学の学生の受け入れをきっかけに自信を持って話せるようになった。やってきた約40名の外国人に美月団子作りと漁業体験をしてもらった。もちろん言葉は通じないのだが、おばあちゃんたちは参加者になんとか自分の体験や想いを伝えようとすごく頑張ってくれた。結果的に言葉が通じなくとも、一緒に活動することで互いに共感できたのだろう。学生にとってもおばあちゃんたちにとっても満足のいくツアーとなった。この経験から、誰が来ても想いを伝えられる自信がついた。
福岡にある明豊館高校とは、スタディーツアーにご参加いただいてからつながりが続いている。この高校は通信制の学校で、生徒のほとんどが小中学校の時に不登校だった子どもたちだ。この子たちが来た時は一緒にゆべし作りをした。先生役のおばあちゃんたちは生徒の一生懸命な姿に感動していた。受け入れの1年後、ツアーのお礼にと明豊館高校からおばあちゃんたちが招待された。生徒のご家族の方々から「うちの子は長洞元気村に行って変わったんですよ」と聞いて、私もおばあちゃんたちもとても驚いた。中には長洞元気村に関わったことをきっかけにバンドを始めた子もおり、演奏を聴かせてくれた。生徒たちの変化を目の当たりにして、私はとんでもない宿題をもらったと思った。一体、長洞元気村の何が生徒たちを変えたのか。これは私の生涯をかけて答えを探さなければならないかもしれない。田舎のおばあちゃんたちの生活や生き様の中に、忘れかけていた大事なものがあると生徒たちが気づいたのではないかと仮説を立てている。
なでしこ会のメンバーや長洞未来会議に参加している住民は、長洞元気村の活動を理解してくれているが、そうではない住民もいる。長洞元気村に時々来る大型バスを見て、「あの人たちは何をしに来たのだろう」と思っている住民もいるだろう。長洞集落の中でも、被災した人と被災しなかった人で、若干の壁があるように感じている。その壁も徐々に克服していけると思っている。少しずつ長洞元気村の活動の輪を広げていきたい。
■自分たちが楽しいと思える地域づくり
少子高齢化により過疎化が進む中、課題解決のために全国各地で企業誘致などの交流・定住人口の増加を目的としたさまざまな取組が行われている。過疎化解決には自分たち自身が生き生きと楽しく生きることが一番大事だと私は思っている。誰かをあてにして楽しむのではなく、自分たちの力でなんとか工夫して楽しむべきだ。楽しい地域ができれば人は自然に集まってくると思う。あの大震災を皆で乗り越えられたのだから、地域の力をひとつにしてこれからも頑張っていきたい。それが、私たち長洞集落の想いだ。全国から支援をいただきながら、少しでも前に進めたら良いと思う。