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東日本大震災後のレポート

Report6 つながりが生んだ健康になるコミュニティカフェ

2016.02.09 17:55

【氏名】吉田和子氏、鵜浦淳子氏、黄川田尚子氏
【所属】NPO法人りくカフェ
【属性】NPO
【県市】岩手県陸前高田市
【取材日】2015/10/30
【タイトル】つながりが生んだ健康になるコミュニティカフェ
 
【紹介文】
震災による甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市にて、地元医師、地域の女性、建築・まちづくりの専門家たちが協働でNPO法人を設立し、医療施設が集まる高台でコミュニティカフェ「りくカフェ」の運営を開始した。陸前高田市の復興と活性化を目指し、りくカフェを通じて新たなコミュニティの形成や地域住民の健康づくり等に取り組んでいる。
 
【本文】
■3月11日(金)14時46分
(鵜浦さん)震災当日、私は仙台にいたが、夫から「葬儀があるから帰ってこい」と連絡が入り、急いで陸前高田に戻った。葬儀から自宅に帰り、服を着替えている時に地震が起きた。古い家だったため、大きな揺れで瓦がいくつも落ちた。いつ崩れるか分からない家の中にいるのが怖くて外へ避難することにした。もし家の中に居られる状態だったら逃げなかったかもしれない。
 夫が営む病院へ行くと、患者さんたちが外に避難していた。病院の向かいは黄川田さんのご主人が営む調剤薬局だ。薬局にいた患者さんやスタッフも外に避難していた。とてもじゃないけれどもすぐに病院も薬局も再開できる状態ではないので、夫と黄川田さんのご主人が今後の対応を相談し、患者さんたちには帰ってもらうことにした。「家族が迎えに来るから待ちたい」と言う人もいたが、いつ余震や津波が来るか分からない。この場に留まるべき状況ではないと判断し、移動手段のない人はスタッフが家まで送り届けた。家族のいるスタッフが多く、「早く家に帰りたい」との声が多かったので、早い段階で解散を決め、すぐに帰宅させた。中には白衣のまま帰った人もいた。スタッフを見送った後、私と夫も避難するため、山の方に住んでいる夫の両親の家に向かった。義父母の無事を確かめたいし、津波から逃れるのであれば山に向かった方が良いと考えた。車で山を登った後、海の方を見たらすごい煙が立っていた。地震による火事かと思ったが、どうやら津波によって壊された家々の土煙だったようだ。
 夫の両親の家には私たちだけでなく、次から次へと親戚が集まってきた。後からやって来た人に市街地の状況を聞くと、「津波が陸前高田小学校まで来ている」と言う。陸前高田小学校は私の家の近くだ。そこで津波が自宅まで到達したことを知った。きっと少しでも避難が遅れていたら、私も津波に巻き込まれていただろう。
 
(黄川田さん)私は薬剤師として働いており、地震が来た14時46分頃は、いつもなら仕事の合間の仮眠をとる時間だ。ところがその日は、同僚がお休みだったため休憩を取らずに働いていた。そんな時、地震が来た。激しい揺れだった。駐車場に出ると車がボンボンと浮き上がるほどだ。電信柱も今にも倒れてきそうな勢いで揺れていた。薬局があった場所は昔、田んぼだったので地盤がゆるく、なおさら大きく揺れた。
 
(鵜浦さん)私の家も昔は田んぼだった場所だ。吉田さんの家は鳴石地区にある。「鳴石」という地名からも分かるとおり岩盤の強い地区だ。地名に水関係の文字が使われている場所は昔、田んぼや海があった場所なのだろう。そのような場所は津波の被害を受けていることが多い。
 
(黄川田さん)スタッフの1人が大津波警報の情報を見つけ、全員が一度、帰宅することにした。「津波警報」だったら、大きな津波は来ないだろうと考えて逃げなかったと思う。いつも出ている警報より高いレベルの「大津波警報」だったからこそ避難しなければと思った。
 
(吉田さん)東日本大震災の前日にも津波警報が出ており、その時は50cmくらいの津波だった。その程度の津波はよく来る。経験上、大きな被害になると思わないので「津波警報」だけでは逃げない人が多いだろう。いつもよりもはるかに高い9mの津波予測や大津波警報が出たから皆が逃げなければと判断できた。
 
鵜浦さん)病院スタッフの1人は川のそばに住んでおり、地震が来るといつも「うちは津波が来たら一番危ないわ」と心配していた。あの時も最初に「家に帰りたい」と言い、彼女は飼っていた犬を避難させるため家に向かった。地震発生直後、道端で井戸端会議をしている人を多く見かけた。その人たちは内心、まさかこの場所まで津波が来るとは思っていなかったのだろう。多くの人が避難せずに市街地に留まっていた。彼女も避難の道すがら、話しかけられる度に立ち話をしたそうだ。しかし、飼い犬があまりにも引っ張るので、仕方なく話を切り上げ避難した。津波被害地域は住民が想像するよりもはるかに広く、少しでも避難が遅れていたら津波に巻き込まれていたかもしれない。彼女は飼い犬のおかげで助かった。
 1年前にも陸前高田市で大きな地震があったが、結局その時は30cmくらいの津波しか来なかった。私は陸前高田市の外からお嫁に来たので、この地域で育ったわけではない。自宅は海から遠いと思っていたし、チリ地震の時も家までは津波は来なかったと義父母から聞いていた。正直、今回の地震でもどうせ小さな津波だろうから家は大丈夫と津波被害の心配は一切していなかった。きっと街の人もそう思って悠長に立ち話をしていたのだと思う。しかし、実際は街をまるまる飲み込んでしまうほどの津波が来て、私の家を含め多くの建物が流された。市街地が更地になった後、自宅があった場所に行ってみると想像以上に海が近くにあり、とても驚いた。
 
(吉田さん)知人が営むお食事処も津波に流された。ご家族に聞いたところ、知人は「夕方に予約が入っているから準備しなくちゃ」と店に戻ったため、店とともに津波に流されたそうだ。一方で、「裏のおばあさんを助けなければ」と避難した人は、おばあちゃんと一緒に高台へ逃げて助かった。家や仕事を優先したか、自分や周りの人々の避難を優先したかで命運が分かれた。
 
(鵜浦さん)3月11日は確定申告の時期で、手続きのため多くの人が市役所に来ていた。市役所の避難場所は目の前の公園が指定されている。地震発災後、市役所にいた人や周辺の住民はその公園に避難した。多くの人がいるから大丈夫と安心して公園に留まったのだろう。津波はその公園をも飲み込み、そのまま多くの人が流されてしまったそうだ。津波に流された私の家よりも海に近い場所が、避難場所に指定されていたのはどうかと思う。他にも避難場所に行き、安心して留まっていたが故に避難場所ごと津波に飲み込まれ、亡くなった方がたくさんいる。
 
(黄川田さん)私は避難場所を知らず、無意識に車で山の方へ向かった。避難している道中、たまたま主人とすれ違ったため、すぐさま車に乗せて一緒に避難した。山の頂上まで行ったところで車を降り、街の方を見ると砂埃が巻き上がっていた。双眼鏡で街の方を見ている人が「津波だ!津波だ!」と叫んだのを覚えている。私は呆然と立ち尽くし、じわじわと津波が街に押し寄せ、家々を飲み込み、グレーに染まっていく様子をただただ見ていることしかできなかった。もしも大津波警報の発令に気づかなかったら、私も津波に飲み込まれていただろう。知らせてくれたスタッフに感謝している。
 震災当日の夜は避難所で過ごした。とても寒くて、車のエンジンをつけたり消したりしながら暖を確保した。避難生活を送る中で、ガソリンの流通がストップしている話を耳にした。これまで車で暖をとっていたが、ガソリンが手に入らない以上、いつまでも車に頼った生活は難しい。そんな時、鵜浦さんが親戚の家に避難しているという話を聞き、私たちもそこにお世話になることにした。
 
(鵜浦さん)避難後はそのまま夫の両親の家で、数十人の親戚と一緒に数日間生活した。避難所には自衛隊が来て支援物資が届いたが、自宅で避難生活を送る人には食べ物も水も来ない。幸い、陸前高田市のガスはプロパンが多く、ガスの復旧は早かったため、震災から数日後には料理ができ、温かい物を食べられた。ライフラインの復旧で一番遅かったのが水だ。復旧したのは2011年6月になってからだった。水の確保にはとても苦労した。近くに湧水があり汲みに行くことができたが、何十人分の水はとても重く、運ぶのが大変だった。それにもかかわらず、汲んだ水はあっという間になくなってしまうので、毎日のように湧水を汲みに通った。当時はトイレを流すのにもこんなに水が必要なのかととても驚いたものだ。水の大切さを感じ、節水を心がけた。
 
(黄川田さん)食器にラップを敷くなど、なるべく水を使わないように工夫した。
 
■病院・歯医者・薬局の再開を目指す
(鵜浦さん)震災直後は病院の閉鎖やスタッフの解雇の手続きなどで頭がいっぱいで、病院の再開を考えられなかった。正直、今を生きることで精一杯だった。主人は病院のスタッフたちに声をかけ、黄川田さんのご主人とともに皆で陸前高田病院のお手伝いをしていた。私たちの他にも被災地を助けようと全国から医療ボランティアが来てくれた。しばらくすると、陸前高田病院の院長から「はやく病院を立ち上げて欲しい」と話があった。この津波で開業医が何名か流され亡くなったそうだ。「医療と買い物をする場所がなくなると住民は別の場所に転居してしまうから」と言われ、一緒にいた黄川田さん夫妻とともに病院と薬局の再開を決意した。
 主人の父はチリ地震の際、陸前高田市に来た大津波を目撃したそうだ。波がうねる異様な様子に恐怖を覚えたと言う。その頃からいずれは津波被害に遭わない高台に病院を建てたいと考え、土地を買っていた。震災後はスーパーマーケットや文具屋などに高台の土地を貸して欲しいと言われ、仮営業の手助けをした。歯科医を営む吉田さんからも土地を貸して欲しいと言われたので、この土地で一緒に病院を開業することにした。
 まずは知り合いの建設会社の方にお願いをして、プレハブを10棟分ほど集めた。仮設住宅などに使われているせいか、プレハブが全然無くて集めるのに苦労した。陸前高田市の冬は寒い。プレハブだけでは寒さに耐えられないので断熱材を入れる手配をした。土地も山を切り崩しただけの状態だったので、砂利を敷いた。建設会社の方が協力してくださったおかげで震災から約1ヶ月後の2011年4月26日、高台に病院・歯医者・薬局を開業することができた。
 病院の開業は市民のためだけでなく、震災の影響で働く場所が無くなってしまったスタッフたちのためでもあった。助かったスタッフは陸前高田病院でのボランティアをしながら、開業準備を一生懸命手伝ってくれた。感謝してもしきれない。カルテも医療器具も何もかもが津波で流失した状態ではあったが、スタッフがいてくれたからこそ、開業にこぎつけられた。
 
(黄川田さん)震災後、ひとつの家で避難生活を共にしていたこともあり、病院再開に向けた話し合いがスムーズに進んだ。もしも、私が別の場所に避難していたらこのような形にはならなかったと思う。1人だけでは決断できなかった。
 
■「りくカフェ」の設立
(吉田さん)まちづくりの専門家である東京大学の小泉秀樹先生との出会いが「りくカフェ」誕生のきっかけとなった。小泉先生と私の主人は以前より友人だったこともあり、彼が被災地調査のため陸前高田市に入ってきた時に私たちの家にも訪ねてきてくれた。当時、陸前高田市は地震と津波の被害でほとんど街が機能していない状態で、もちろん宿泊場所もなかった。どこに泊まるのかと聞くと「どこで寝ようか考えているところでした」と言うので、我が家に泊まってもらった。それから小泉先生が陸前高田市へ調査に来ると、必ずうちに泊まるようになった。
 私は東京出身で、陸前高田市に移住後は同窓会で会う友人に「よく陸前高田市に行ったわね」と言われていた。そんなやりとりがあったので、震災後に陸前高田市が被災したと報道が出るやいなや、陸前高田といえば私と言わんばかりにたくさんの支援物資が家に届いた。友人たちは私に支援物資を送れば被災者に配ってもらえるだろうと考えたそうだ。被災地へ何かしたい思いはあったが、支援物資をどこに送れば良いか分からず、しかも本当に被災地で役立ててもらえるかも不安で躊躇していた中で、私を信じて送ってきたのだ。2011年4月頃から毎日、支援物資の入ったダンボールが15箱ほど届いた。私に支援物資を送る活動は友人づてで広まり、一番多い時で50箱も届いたことがあった。あまりにも多かったので私だけではさばききれず、鵜浦さんや黄川田さんなど、地元のお母さんたちに支援物資の分別を手伝ってもらった。作業が終わった後は、皆でお茶をして束の間の休憩を楽しんだ。小泉先生は、皆で集まりお茶を楽しむ様子を見て「今この被災地に足りないのはコミュニティだ。コミュニティカフェを作るのはどうか」と提案してきた。私たちが楽しそうにしているのを見て、小泉先生は全然知らない人同士でもお茶飲みができるような、新たなコミュニティが生まれる場所が必要ではないのかと考えたそうだ。こうして、コミュニティカフェづくりが始まった。
 鵜浦さんのご主人に、病院を再開した場所にまだ土地が余っているのであればコミュニティカフェを作りたいと相談し、場所を提供してもらった。建物の設計は小泉先生のお知り合いで、建築家の方に協力していただいた。さらに小泉先生がコミュニティカフェ設立の構想を住友林業に話すと、「復興支援をしたいと思っていました。ぜひ、うちで建設させてください」と快く建設を引き受けてくださったそうだ。
 
(鵜浦さん)小泉先生を始め、りくカフェ設立に関わってくださった専門家の方々は何度も何度も陸前高田市に通ってくれた。勝手に作るのではなく、模型や計画を示した上で、私たちと何回も何回も話し合いを重ね、私たちの思いや考えをコミュニティカフェの計画に反映してくれた。そうしてカフェだけでなく、病院や歯医者、薬局も合わせて1つの機能を持つような形を目指すことにした。
 
(吉田さん)完成が見えてきた頃、「りくカフェの運営は誰がやるんですか」と小泉先生に聞いたところ、私たちを指差した。相談にのっていた頃はまさか私たちがりくカフェを運営するとは思っていなかったので、とても驚いた。家や病院に来るお客様にしかお茶を出したことがない私たちが、カフェを運営できるのだろうか。すごく不安になった。皆で心配顔をしていると、小泉先生が「いつものようにやればいいのだから大丈夫。思ったようにやりなさい」と仰った。
 
(鵜浦さん)私たちがコミュニティカフェを発案したのではない。設立準備をしていた当時は、コミュニティカフェを開き、誰かのために動く余裕はまったくなかった。しかし、私たちで運営することが決まってしまった。とてもじゃないけれども私たちだけでは運営できないと思い、手伝ってくれる人を探すことにした。
 
(吉田さん)りくカフェの運営にあたり、まずは支援物資の分配を手伝ってくれた人に声をかけた。すると、皆が快く協力してくれた。「皆が楽しくしていればいい。皆が楽しいコミュニティを作れば、そこに人が集まってくる」と小泉先生は仰った。
 最初に建てた仮設のりくカフェは、保健所から喫茶営業の許可が下りない造りだった。コミュニティカフェの運営方法について保健所に相談に行くと、「もちろん営業許可は出せないけれど、やり方を考えたら良いのでは」と返答をいただいた。
 
(鵜浦さん)喫茶営業はできないので、仮設のりくカフェの頃はテーブルにお菓子を広げ、コーヒーを準備し、自由に飲食できるようにした。
 
(吉田さん)震災以降は支援の一環として無料でお茶を提供してくれるイベント等があったが、私は初めからりくカフェの利用料を無料にしてはならないと考えていた。人件費は賄えないとしても、光熱費は運営していく上で必要経費であり、利用料を無料にしては運営を持続できないと考えた。利用者にはりくカフェの支援金として募金をしてもらうことにした。無料の方が良いのではという意見もあったので、有料と決めるまでにメンバー内で何度も話し合った。振り返れば、りくカフェは初めから有料にして良かったと思っている。
 
(鵜浦さん)陸前高田市民の多くは、津波で家が流されるまで天井の高い大きな家に住んでいた。りくカフェの天井が高いのは、天井の低い仮設住宅に住んでいる方々に、昔のように天井の高いところで過ごせる場所を提供したいと小泉先生が考えたためだ。三角屋根も、昔ながらの天井の高い三角屋根にすることで、少しでも被災者を癒せたらと住友林業さんが設計してくださった。仮設住宅ができあがると、それぞれの仮設団地に住民が集まってお茶を飲める集会所もできた。りくカフェまで来る交通手段がない方が多く、わざわざ地域住民が来ることは少なくなった。今は地元住民よりも、ボランティアや支援で来たお客さんの方が多い。地域外からのお客さんが増えた頃から、りくカフェが陸前高田の情報発信機能を持つ必要があるのではと考えるようになった。りくカフェ運営の3本柱の1つ「市内外を結ぶ架け橋の場」というのはこの考えから来ている。
 
鵜浦さん)仮設からいよいよ本設のカフェ建設となった時に、クラウドファンディングなどを通じて多くの方から支援をいただいた。りくカフェ運営開始当初は、集会場など被災者が集まれるコミュニティの場ができてりくカフェが必要なくなるのであれば、運営を終了しても良いと思っていた。だからこそ今一度、「本当に本設を建てるのか」から運営方針、コンセプト、提供する料理までメンバー皆で議論した。最初は、パスタやカレーなどおしゃれなメニューを出すカフェにしたいと思っていた。一方で、震災の影響で閉店していた飲食店が仮設で営業再開を始めた頃だったので、邪魔をしたくない思いもあった。皆で話し合う中で、りくカフェでしか出せないものを提供したらよいのではないかと案が出た。この敷地にはりくカフェの他に病院も歯医者も薬局もある。ここを「クリニカルビレッジ」にしようと話がまとまり、りくカフェでは素材を活かした減塩健康食を出すことにした。こうして、今のりくカフェの形ができあがった。
 
(鵜浦さん)もちろんスタッフ全員が被災者で、中には震災の影響で職を失った人もおり、発災後は暗い気持ちになっていた。それが、りくカフェで働くことにより、皆が少しずつ元気になっていった。皆で楽しく活動していると、どんどん人が集まるようになり、さらに皆の笑顔が増えていった。誰よりも私たちスタッフがりくカフェに癒された。だからこそ、りくカフェは長く続いているのかもしれない。
 
(黄川田さん)震災後いろいろなものを失ったけれども、りくカフェの立ち上げと運営に日々忙しくしていたため、振り返る暇もなかった。でも、それが良かった。
 
(吉田さん)スタッフは皆、昔からよく知っているお茶飲み友達だ。お客さんが来なくとも、皆でお茶を飲みながら楽しんだ。我が家で友達とお茶飲みをするのと同じ感覚だ。違うのは、りくカフェは誰でも来て良い場所という点だけだ。
 
■ご縁でつながるりくカフェの輪
(鵜浦さん)ボランティアでの運営では長く続かない。だから小泉先生たちにご協力いただきながら、りくカフェをNPO法人化した。法人化にあたり、書類作りに尽力してくださったのも、小泉先生を通じて知り合った専門家の方だ。外にあるハーブガーデンは千葉大学園芸学部の方に監修していただいた。ここにあるものは私たちだけではなく、さまざまな方々からのご協力をいただいて作ったものだ。
 
(吉田さん)ロゴを作ってくれた方は、りくカフェの常連客の1人だ。お話している中でデザイナーであることを知り、ロゴのデザインを頼むと快く引き受けてくれた。今ではNPO法人りくカフェの理事となり、冊子やパンフレットのデザインもしてくれている。
 
(鵜浦さん)仮設のりくカフェがオープンした時に、岩手県平泉市にある福祉施設「たけとんぼ」で焙煎したコーヒー豆を支援でいただいた。りくカフェではずっとそのコーヒーをお客さんに提供していた。その後、竹とんぼさんから「りくカフェオリジナルのブレンドを作りませんか」とお声がけいただき、スタッフでさまざまなブレンドを試飲して、今出しているオリジナルのブレンドコーヒーを作った。パッケージのデザインはもちろん、ロゴを作ってくれたデザイナーの方にお願いした。「りくカフェ」がさまざまな方とのご縁をつないでくれている。
 
■今後の展開
(吉田さん)りくカフェの3本柱「誰もが楽しく集える場」「市内外を結ぶ架け橋の場」「健康と生きがいづくりの場」を念頭に、誰も拒まないコミュニティカフェを運営していきたい。りくカフェに来た人々が「ここに来て良かったわ」と思える場所にしたいと思っている。
 
鵜浦さん)介護保険を使っていない方々に、若くて健康な身体であり続けて欲しいと考え、昨年から介護予防事業「スマートクラブ」を始めた。市から委託を受けて、健康と生きがいづくりのために、1回2時間の講座を、全7回コースで年に4クール行っている。参加者はまず、身長や体重、血圧を測定する。毎日家でもできるような簡単な体操を30分ほどした後に、健康に関するミニ講座を行う。最後にりくカフェ特性のヘルシーメニューを、皆でおしゃべりしながら食べる。一人暮らしで栄養が偏っている人や、あまり外に出ない人にぜひ来て欲しい。元気な人をより元気にするための取組だ。OB会もあり、1ヶ月に1度集まって計測を行い、OBの方々が気に入ったミニ講座や体操をもう一度行う場を設けている。将来的には生きがいづくりの場にしていきたいが、まだ検討中だ。例えば、参加者が自分の趣味を活かして先生となり、地域の方に教えるミニ教室を作れたら良いと考えている。りくカフェはスペースが狭いので、最大でも8名までしか講座に呼ぶことができないのが悩みだ。また、遠くてりくカフェまで来られない人もいる。来年は外に出張して、各仮設住宅の集会場などで講座を行うことも考えている。
 震災後、陸前高田市沿岸部に住む高校生の肥満率が全国1位となり、高校の先生から相談を受けた。今の高校生はスクールバスや送り迎えが当たり前で、陸前高田市では以前運動場だった場所に仮設住宅を建てているため、運動する場所が少ない。加えて、避難生活を送っていた時は支援物資としてお菓子がたくさん届いたので、子ども達は皆、喜んで食べた。震災以降、陸前高田市では肥満や虫歯に悩む子どもが増えている。何とかしなければならない課題だと思う。せっかく助かった命なので、皆に元気に過ごしてもらいたい。りくカフェは皆が健康になれる場所にしたいと思っている。