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東日本大震災後のレポート

Report5 自然にやさしい公園で子ども達に笑顔を

2015.10.28 11:15

【氏名】藤井了氏、藤井サヱ子氏
【所属】創作農家こすもす
【属性】個人
【県市】岩手県釜石市
【取材日】2015/7/10
【タイトル】自然にやさしい公園で子ども達に笑顔を
 
【紹介文160文字】
岩手県釜石市出身。田んぼをコスモス畑にし、市民へ開放したのをきっかけに釜石の活性化を目指した活動を精力的に行う。「創作農家こすもす」を設立し2002年にミニ産直コスモス、2007年にレストランこすもすを開店、2012年にはこすもす公園を開園した。これらを出会いと文化発信の拠点とし、一日も早い釜石の復興と活性化を願い活動している。
 
【本文】
■3月11日 14時46分
(了さん)夫婦二人で釜石駅の近くへ用足しに行っていた時に地震が起きた。今まで経験したことのない大きな揺れに、必ず津波が来ると確信した。私たちの住む甲子地区は山側にある。すぐさま、自分の家まで戻り難を逃れた。もし家に戻っていなければ津波に巻き込まれただろうと思うとゾッとする。震災から4日後、浜の方の状況が気になり、情報がないまま浜の方へ向かった。発災当時に私たちがいた場所は津波によって流された車が重なり合い、電柱は根こそぎ倒され、まるで地獄絵図のようだった。私たちは東日本大震災に遭遇するも生き延びることができた。変わり果てた浜の様子を見て、生かされた者としてまちの復興のために何か貢献しなければならないと思った。
私たちは農家レストランを経営している。地震の影響でほとんどの皿が割れ、とても営業ができる状況ではなかった。それはどこも同じで、地震と津波の影響により沿岸部だけでなく市街地ですらご飯を食べられるお店はなかった。被害の大きかった地域では食材の調達はもちろん、ライフラインが断たれたためあたたかいご飯の調理も難しい。地域住民からはレストランを再開して欲しいとたくさんの声が寄せられた。この声に後押しされて、震災から3週間後に農家レストランの営業を再開した。
 
■子ども達の遊ぶ場所を
(了さん)私たちは震災以前からレストランの前にコスモス畑をつくり、一般開放していた。よく近所の子ども達が遊びに来てくれた。震災後もそれは変わらなかったのだが、遊びに来てくれる子どもの中の1人が、いつも同じノートを大事に持ち歩いているのが気になった。ある時ノートについて尋ねてみると、「津波のことが書いてある」と言う。そこには津波から逃げた様子やその後の生活、地震への思いが秒刻みで綴られており、「9歳で死ぬのかと思いました」と書いてあった。たったの9歳で死を覚悟したのかと衝撃を受け、その日記に涙した。あの文章が今も忘れられない。その子は現在、みなし仮設に住んでいる。仮設住宅には同じように死の淵を経験した子ども達がたくさんいるだろう。大震災により心に大きな傷を負った子ども達の笑顔を増やしたいと思った。
甲子地区だけでも17箇所に約千戸の仮設住宅が建ったが、そのほとんどは公園の土地が活用されている。公園は公共施設のため、仮設住宅建設地に選ばれやすい。こうしてどんどん子ども達の遊ぶ場所が減っていった。これから復興を進める上で、未来の地域の担い手である子ども達の存在は重要だ。けれども多くの人々が大変な体験をしてストレスを抱えている中では、子ども達は身体を動かして発散する場所もなく、仮設住宅の中で静かにしていなくてはならない。まずは子ども達に元気になってもらいたい、そのためには楽しく遊べる場所が必要だと考えた。私たちにはコスモス畑があり、コスモスは種を蒔けばいつでも咲かせることができる。コスモス畑の敷地を使って子ども達のための公園を造ることを決めた。
公園造りには10人ほどの外国人ボランティアが協力してくれた。彼らと初めて出会ったのは、レストランを再開してまもなくの頃だった。外国人のお客が珍しかったので、釜石に来た理由を尋ねてみた。彼らは被災した幼稚園の厨房を直すボランティアに来たという。釜石のために無償で働いてくれるのだから、彼らからお金を取るわけにはいかないと思い、食事は無料で提供した。彼らは翌日も来たので、同じようにごちそうした。その後、ボランティアが終わったのか顔を出さなくなった。そして数ヵ月後、ちょうど公園造りを始めようと動き出した頃、久しぶりに彼らがレストランに現れた。「ご飯をご馳走になったので、恩返しをしたい。何か手伝わせてくれ」と言う。彼らの心意気に嬉しくなった。公園造りの構想を話すと、「お父さんにばかりそんな楽しそうな仕事をさせられない。ぜひ手伝わせて欲しい」と協力を申し出てくれた。それから、コスモス畑の敷地内にあるプレハブに泊まってもらい、皆で公園造りを始めた。
外国人ボランティアのリーダーはオールマイティな人で、もともと千葉県を拠点にパーマカルチャーを取り入れたものづくりをしている。環境への配慮を考え、極力金物類は使わず、いずれ土に還る材料を使った遊具を提案してくれた。
 
(サヱ子さん)この地域は山側なので木が豊富にある。滑り台は手すりも滑る部分も地域の木で作った。彼らと木を見て回り、材料として理想的なものを探した。遊具は自然のままの木の形を活かしたものにしたい。滑り台に合うようなゆるやかに曲がる木を見つけた時は皆で喜んだものだ。木の持ち主に使用の許可を願い出ると「地域の子ども達のために使うのであれば、いくらでも持って行って良い」と快諾してくれた。
 
(了さん)ボランティアのリーダーは、彫刻家、パン職人、大工などさまざまな特技を持つ仲間たちを連れてきてくれた。この公園にあるピザ窯は彼らの発案だ。ミミズの力を借りるコンポストトイレもある。彼らにたくさんのアイディアを出してもらったおかげで、世界でたった1つの公園ができあがった。皆の力を合わせて公園を造った日々は本当に楽しかった。一宿一飯の恩が公園造りへの協力につながるなんて、東日本大震災が起きなければあり得なかっただろう。震災によって甚大な被害が出たけれども、それを乗り超えるためのプラスの“何か”も、たくさん生まれていると思う。
 
■地域の皆が楽しめる場づくり
(サヱ子さん)そもそも「創作農家こすもす」を始めたのは、両親の介護のために単身で釜石に戻ってきたのがきっかけだ。私の家には両親が大切に守ってきた畑や田んぼがあった。荒らしたくない気持ちは強かったが、一人では、ましてや両親を介護しながら畑や田んぼを管理するのは難しい。どうしようかと困っている時、市の広報に目が留まった。記事には「転作で困っている人向けに転作種子を配布します」と書かれていた。これだと思いすぐに市役所へ連絡を取ると、後日コスモスの種が届いた。休耕田全体にコスモスの種を蒔くと、秋にはたくさんの花が咲き、それはとても美しかった。この美しい風景を独り占めするのはもったいない。この幸せを多くの人と分かち合おうと、コスモス畑を市民に開放してコスモスの花は自由に摘んで持ち帰ってもよいことにした。すると「コンサートで飾りたい」とか、「病院の玄関ホールに飾りたい」とたくさんの人がコスモスの花を摘んでいった。コスモスを持って帰る時の皆の笑顔がとても嬉しかった。この幸せに味をしめ、だんだんコスモス畑を開放するだけではなく、もっと来る人が楽しめるようなイベントを開催したいと思うようになった。初めに思いついたのはコンサートだ。地域の方の中から演奏ができる方を探し、畑のデッキで演奏してもらった。そこから、私の遊びが始まった。この地域には農家が多い。コスモス畑に遊びに来た人から「産直があればいいのに」と言われて、産直に挑戦したいと考えたのだが、私は経営に関しては全くの素人だ。経営について勉強するために娘や地域の人と一緒に3年ほど起業塾に参加し、2001年に産直をつくった。亡くなった母とは「コスモスが咲く中で、皆にお蕎麦などをご馳走してあげたいね」と話していたこともあり、母娘の夢を叶えるべく、2007年には農家レストランこすもすをオープンした。これらの取組には釜石を元気にしたいという私の願いが込められている。創作農家こすもすから釜石の魅力を発信し、釜石全体の活性化につなげていきたい。
 
■食べられる公園で食育を
(了さん)こすもす公園では滑り台の周りで野菜や果物を育てている。実ったものは誰でも自由に食べて良い。今はブルーベリーを育てているので、熟れた実を食べるのは鳥と子ども達の競争だ。他にも、約3千haある公園の敷地のうち、約3分の1を「ちびっこ農園」と称して、子ども達の農業体験の場にしている。
 
(サヱ子さん)企業と協力して子ども向けの農業体験を企画した時は、参加者やご家族にとても喜ばれた。皆で野菜を収穫し、調理した物を子ども達は「おいしい、おいしい」と嬉しそうに食べてくれる。たくさんの野菜に触れられるよう、常時数種類の野菜を育てている。子ども達にとって畑は発見と驚きの連続だ。楽しそうな子ども達を見ていると、私も嬉しくなる。
 
■進化し続ける公園
了さん)公園の隣は鉄工所で、今も稼働している。鉄工所の壁面はスレートのため雨が降ると真っ黒になってしまう。この黒い壁を見ると津波を思い出すという子がいた。公園は子ども達が楽しむ場所で、辛いことを思い出す場所であってほしくない。それなら黒い壁が見えないように絵を描いたらどうだろうとアイディアが出たが、周囲には肝心の画家がいなかった。この時ちょうどバンコクから復興支援に来ていた女性に相談してみたが、すぐに解決策は見いだせなかった。ところが彼女がバンコクに帰った後、仲間内で開いたという新年会で思いがけないつながりが生まれる。参加者の中に画家がいて、皆が順番に新年の抱負を話す中で「私の夢は大きな壁に絵を描くこと」と話したという。それを聞いた彼女は、こすもす公園の壁画を描かないかと話を持ちかけてくれた。画家の方も快く承諾してくださったそうだ。彼女から画家が見つかったと連絡があったのは2012年1月のことだった。話が決まるとすぐに連絡をくれたようだ。
 2012年3月、画家が現地視察に来ることになった。壁は鉄工所のものなので、来る前に壁に絵を描く許可をもらわなければならない。急ぎ鉄工所の社長を訪ねて壁を使用する許可を願い出たところ、快諾を得ることができた。被災した子ども達のための活動ならば、と協力してくれたのだと思う。こうして大きな壁画を作る一大プロジェクトが始まった。鉄工所の壁一面だ。描ききるには相当な時間がかかる。画家の指示のもとで、たくさんのボランティアが協力してくれた。
壁画製作も終盤に差しかかった頃、画家が「壁画に子どもが描いた絵が入らないと魂が吹き込まれない」と言う。壁画完成公開の1ヶ月前に50人ほどの子ども達を公募し、壁画に絵を描くワークショップを行った。ワークショップには市長も駆けつけてくれ、皆が手をつないでいる絵を描き足した。できあがってみると、確かに子ども達が描いた絵があってこそ夢と希望の力強い壁画になった。こうしてたくさんの方のご厚意が集まり、全長43mのカラフルで温かみのある壁画を完成させることができた。
 
(サヱ子さん)鉄工所の社長さんは毎週のように壁画作りを手伝いに来てくれた。社長は震災当時、被害の大きかった大槌町で被災した。今は仮設住宅に住んでいる。以前は気持ちが落ち込んで眠れなかった時期もあったそうだが、「できあがった壁画を見てとても癒された」と言っている。
 
了さん)ある日、鹿児島の中学校から手紙が届いた。そこには、「インターネットで壁画を見つけました。私たちの文化祭で、この絵をもとに切り絵をつくりたいので、許可をいただけませんか」と書いてあった。もちろん、すぐに承諾した。生徒たちは7mの切り絵を作成し、今でも学校に飾っているそうだ。こすもす公園の壁画をもとにしようと考えてくれたこと、そして遠く離れた鹿児島で壁画がもとになった絵が飾られていることは、思わぬ広がりでありとても嬉しい。
 いつまでも公園を楽しめるように、開園後も壁画の他にクライミングウォールや希望の鐘などを新設するなど、少しずつ進化させている。ただ、私たちだけで公園を管理するのは難しい。この地域に公園を守る子ども会を作り、地域の皆で管理していく方向へシフトしていきたいと考えている。今後は毎月第1土曜日、公園の清掃や草取りをしてもらい、そのごほうびにピザを振舞うなど、地域や子ども達で管理する仕組みを考えている。
 
 
 
■皆の笑顔に私たちは癒されている
(サヱ子さん)「公園」という子どもが楽しめる場ができた、で終わりではない。これから震災と同じような困難や壁にぶつかることがあっても、乗り越えられる力を子ども達に身につけて欲しいと思っている。これからも子ども達にとって学びにつながるようなイベントや体験学習を積極的に行っていきたい。
コスモス畑を開放し始めた頃から、根底には「釜石を元気にしたい」との思いがある。交流人口が増えれば地域活性化につながると考え、たくさんのイベントを開催してきた。私たちが楽しく仕事をしていれば、楽しそうな雰囲気につられて全国各地からお客さんが集まってくるだろう。イベントを通じて多くの人に釜石の魅力を知って欲しい。そして、釜石に笑顔が増えれば良いと思う。イベントの実施自体も楽しいけれど、開催後に参加者から「次はいつやるの」「またやってね」と声をかけてもらえるのが一番嬉しい。その言葉に背中を押してもらえるからこそ、イベントを続けられるし、やめることはできない。
 
(了さん)毎年、子どもの日が近づくと公園に鯉のぼりを出している。こすもす公園には保育園や幼稚園からも遠足にやってくるが、そのうちの1つの園から相談の電話があった。遠足に行くのは5月末だが、その時まで鯉のぼりを飾っておいて欲しいと言う。その保育園は山田町にあり、鯉のぼりが津波で流されたそうだ。子どもの日がとっくに過ぎた日なのは分かっているが、子ども達に鯉のぼりを見せてあげたいのだと言う。本当は子どもの日が終わったら片づけようと思っていたが、事情を聞いて遠足の日まで飾っておくことにした。当日やってきた幼稚園児が帰る時、整列して「ありがとうございました」とお礼のあいさつの後、鯉のぼりの歌を歌ってくれた。事前に練習していたのだろう。皆の笑顔に、鯉のぼりを出しておいて良かったと心があたたかくなった。
公園には幼稚園児や小学生、福祉施設の子ども達、老人ホームに通う方も遊びに来る。遊びに来る人は皆、公園を綺麗に使ってくれる。子ども達を癒すために開園した公園なのだが、子ども達が騒いでいる声を聞いたり、楽しく走り回っている姿を見たりしていると、実は私たちが癒されているんだということに気がついた。